バレエに生涯を捧げ、ウクライナとの交流に貢献した寺田バレエ・アートスクール校長の高尾美智子先生が永眠。ウクライナ国立歌劇場の京都公演を追悼公演に

ウクライナと日本のバレエ教育の架け橋として、50 年にわたり両国の国際交流を深めてきた寺田バレエ・アートスクール校長、高尾美智子先生が、去る11 月 9 日に永眠されました。優れたバレエ指導者であり、さらに、京都にある寺田バレエ・アートスクールとキーウ国立バレエ学校姉妹校盟約締結を実現し、長年に渡る交流を行ってきました。多くのバレエダンサーを目指す生徒たちが、その指導のもとでウクライナに留学しています。また、アジア人として初めてウクライナにおける国立歌劇場の芸術監督に就任して注目を浴びた、ウクライナ国立バレエ芸術監督の寺田宜弘さんの母でもあります。
高尾美智子先生の逝去を受けて、2025 年 12 月~2026 年 1 月に来日公演を行うウクライナ国立歌劇場の京都公演を、追悼公演にすることが決定いたしました。厳しくも温かい人柄で、生徒からもダンサーからもウクライナ関係者からも、深く敬愛されていた美智子先生を偲び、追悼文として彼女の半生を、舞踊ジャーナリストの菘あつこさんに綴ってもらいました。

2025年4月関西・大阪万博より「さくらさくら」(構成:高尾美智子、振付:今中友子)
出演:寺田バレエ・アートスクール、A.シェフチェンコ(ウクライナ国立バレエ/プリンシパル) Photo 尾鼻文雄

- 高尾美智子先生を偲んで ー

ソ連時代からキーウ国立バレエ学校(当時のキエフ国立バレエ学校)をはじめ、ウクライナとの深い交流を続けてきた寺田バレエ・アートスクール校長・高尾美智子先生。その功績について知る人は多いことでしょう。あらためて、その功績を振り返り、遡って知られざる少女時代から現在まで、生前に私が聞いたことをご紹介したいと思います。

■バレエとの出会い、寺田バレエ・アートスクール創設まで

 高尾美智子先生がバレエに出会ったきっかけは、小学校の先生の言葉でした。1939年生まれ、小学校時代と言えば、第二次世界大戦が終わって間もない頃。バレエが何かも知らない小学生。そんな彼女の両親に「音感が良いからバレエを習わせてみては」と声を掛けたのです。
 当時、小学校の先生がバレエに縁をお持ちというのは珍しいことだったでしょうから、不思議な偶然でしょうか?その小学校の先生は、著書『科学の剃髪』で注目を集めた山下英吉氏に共感した方でした。当時、全国から京都の山下英吉氏のもとに集った人たちがいました。その中の宮下貢介、靖子の両氏がバレエのレッスンも行う瓜生山芸術学院を始めたのです。宮下靖子さんは東京の田園調布育ち、石井小浪さん(現代舞踊の石井獏氏の義妹で舞踊家)のもとで谷桃子さん(後の谷桃子バレエ団創設者)とともに「やっちゃん、ももちゃん」と呼び合って舞踊を学んだ仲でした。

 美智子先生は、その瓜生山芸術学院に見学に行った時のことを話してくれました。「川田正子、孝子、美智子の三姉妹が歌う童謡『みかんの花咲く丘』に合わせて踊っているのを見て、これをやりたい!と」。今でいう、児童舞踊のようなものだったのかもしれません。音楽と一緒に踊ることが楽しく、夢中になっていきました。この学院は踊りのレッスンだけではなく、毎朝5時に集合して小学校の先生と一緒に、大文字山に登ったりもしました。「6年生の時、一日も休まず登ったのは、私一人だった」と美智子先生。ただ山を登ったわけではなく、道中、論語や俳句などを復唱しながら、哲学や精神的なことを教わったそうです。そんな小学生時代の学びが、その後の美智子先生の教育方針を形作る基になったと推察されます。

美智子先生から、小学生時代の恩師今井先生へ感謝のメッセージ(1979年:創立20周年記念プログラムより)

 バレエを続けながら、童謡が好き、子どもが好き、子どもの心理を勉強したいと、華頂女子大学の保育科に進学。卒業後は、幼稚園に就職しました。いったんバレエから離れ、幼児教育に全力を傾けますが、やはりバレエへの思いが膨らみ、大阪球場の一角に谷桃子バレエの大阪教室があるのを知ると、さっそく入門します。そして、本格的にバレエにのめり込んでいきました。
 そんな時、当時、有馬龍子先生のもとで指導に携わっていた寺田博保さんから、自身が振り付けする『レ・シルフィード』のソリストが足りないと、出演の依頼がありました。寺田博保さんは、観世流の能楽師の家に生まれ、東京で青年舞踊などを経験した後、バレエに携わりました。この公演をきっかけに2人は惹かれ合い、1962年に結婚。少し前から自身の勉強のために稽古場を持っていた博保さんと、2人でその稽古場を寺田バレエ・アートスクールとして発展させていったのです。

寺田博保さん、G.キリーロワさん(キーウ国立バレエ学校芸術監督)、高尾美智子さん

■美智子先生とウクライナとの強い絆

 寺田博保、高尾美智子夫妻は、「本物のバレエを学びたい」という強い思いを持ち、日本公演を行う海外バレエ団のツアーに同行します。そして、キエフ・バレエ(現在のウクライナ国立バレエ)の来日公演で、一緒にレッスンをさせてもらったのをきっかけに、キーウを訪れる事にしました。さらに1969年頃から、美智子先生は毎年キーウを訪問して、8年間のカリキュラムが組まれたバレエ学校の教育とはどのようなものかを学ぶようになっていきました。

 そのような経緯を経て、キエフ国立バレエ学校(現在のキーウ国立バレエ学校)と寺田バレエ・アートスクールの姉妹校提携が実現したのです。夫妻によるロベルト・クリャービン氏(当時のキエフ・バレエ芸術監督)、ガリーナ・キリーロワ氏(当時のキエフ国立バレエ学校芸術監督)との交流に加えて、京都市とキーウ市が姉妹都市ということもあっての実現でした。

 寺田バレエ・アートスクールは、1975年の春に40人の子ども達を連れてキーウ国立バレエ学校への短期研修を行います。ソ連時代のこと、大勢の日本人が一度にキーウに訪れることなどなかったので、現地で大きなニュースになりました。以降、78年までは毎年、それ以降は2年に一度のペースで、日本の学校の春休みを利用して2週間程の日程で、定期的に行われていくことになり、ウクライナとの強い絆が繋がれていったのです。

R.クリャービンさん(ウクライナ国立バレエ芸術監督)、G.キリーロワさん、高尾美智子さん、I.コロチェンコさん(キーウ国立バレエ学校校長)、寺田博保さん(1975年)

 初めてキーウ国立バレエ学校短期研修に行った翌年の1976年、夫妻に次男、寺田宜弘さんが生まれます。4歳でバレエを始め、小学校1年生と3年生の時には短期研修に参加。日本では、女の子ばかりの中でレッスンしていたのに、キーウでは男の子がたくさんいて、男子クラスでレッスンできるのがとても嬉しかったそうです。「ここでずっと踊る、帰りたくない」と駄々をこねたと美智子先生はおっしゃっていました。キーウの先生方も彼に才能を感じたのでしょう。「ぜひ、11歳になったら留学させなさい」と勧めました。やがて、それは実現しました。

 1986年に、チェルノブイリ原発事故が起こりました。寺田バレエ・アートスクールの子どもたちは、キーウで一緒にレッスンして友人になった子供たちの安否を心配していました。いても立ってもいられなくなった美智子先生は、すぐにお見舞いにキーウへと飛びました。原発事故が起こった近くの地域は、入国許可を得るのも大変でした。放射能も心配される場所に、手紙ではなく、実際に来てくれた。キーウの人たちは大変感激して、美智子先生とウクライナの人たちは一層心が通い合うようになっていきました。

 翌1987年、宜弘さんはキエフ国立バレエ学校(現キーウ国立バレエ学校)へ日本人初の留学生として1年生から入学。まだ11歳で、日本の義務教育途中からの留学は前例のないことでした。京都市の協力や、キーウ市(当時はソ連)からの協力もあっての実現でした。 寺田宜弘さんと同時期にキーウ国立バレエ学校で学んだ生徒には、アリーナ・コジョカルやデニス・マトヴィエンコ、イヴァン・プトロフなど世界の錚々たるスターが並びます。現在、宜弘さんが、戦禍の中で芸術監督としてウクライナ国立バレエを率いるなかで、同級生や後輩だった彼らはとても力強い協力者になっています。

寺田宜弘さん幼少期

 ソ連時代、今とは違い、留学で日本を離れると、スマートフォンやパソコンなどでの会話は、もちろんまだ出来ない時代でした。当時、電話はありましたが、国際電話は通話料が高額であるうえに、社会主義国であったソ連と日本での通話は、資本主義国同士よりも様々な制約がありました。実際に、電話で話すことができるのは本当に限られた時だけだったようです。そんな状況と分かりながら、息子を遠くキーウに学びに行かせる決心をした美智子先生。並大抵の意志では出来ないことだったでしょう。

 その後、ソ連は崩壊、ウクライナの独立と、大きな変革が訪れる中、2年に一度ある春休みの短期研修は、ずっと続いていました。息子である宜弘さんはバレエ学校を卒業して、キエフ・バレエ(現在のウクライナ国立バレエ)のダンサーになり活躍するなか、キーウ国立バレエ学校及びウクライナ国立バレエと、寺田バレエ・アートスクールの交流は、市や国を交えての交流も含まれ、ますます多岐に渡るとともに、深まっていきました。
 そして、長年に渡り継続してきた、様々な交流や活動を評価されて、美智子先生はウクライナから栄誉ある賞を贈られます。2003年には聖スタニスラフ勲章を受勲、2009年にはプリンセス・オリガ勲章を受章しています。

■終わらない戦争の最中、ウクライナへの想いふたたび

 そして、近年のこと。長年続いていた2年に一度の春休みのキーウ国立バレエ学校への短期研修は、コロナ禍で出来なくなってしまいました。さらに、コロナが明けて再開の目処が立ち、参加する子どもたちがウクライナ語の勉強など準備を進めているさなかの2022年2月に、ロシアによるウクライナ侵攻が始まりました。
 「いつになったら、ウクライナに行けるのだろう?」──子供たちにとって、日本公演のために来日するウクライナ国立バレエのダンサーたちの踊りは特別です。現・バレエ芸術監督の寺田宜弘さんへの視線も特別なものなのです。

 夫妻の長男には、寺田和正さんがいて、寺田バレエ・アートスクールの運営に携わっていました。温厚な人柄でしたが、大変残念なことに、病気で今夏2025年に亡くなりました。
 その少し前、日本のバレエファンからの支援を基にウクライナ国立バレエ『ジゼル』の新制作が行われた事について、寺田宜弘さんの講演会が、京都で行われました。その際に兄の和正さんが私の隣の席に座り、雑談した時の言葉をよく覚えています。「来年、寺田バレエ・アートスクールがウクライナとの交流50年の節目の年なので、美智子先生(親子ながら、兄弟はこう呼んでいます)をウクライナに連れて行きたいと思いましたが、ウクライナはなかなか状況が落ち着かず、渡航の目処は立ちません」。
 時を置かず、和正さんが早くに亡くなられてしまったことは、私にもとてもショックでした。そして、彼の思いが実現しないままに、美智子先生が逝ってしまわれたことも。

 今年、2025年になってからも美智子先生は、大活躍をしていました。4月に関西・大阪万博が開幕し、間もない23日の京都の日に、生徒を率いて万博会場へ。宜弘さんの発案でウクライナ国立バレエのアナスタシア・シェフチェンコさんを招き、寺田バレエ・アートスクールの子どもたちとの共演を行いました。そして、自身が構成した作品を踊る子供たちを、誇らしげに見守っていました。さらに、夏8月24、25日には、ウクライナのダンサーたちを招へいして、2日間にわたる寺田バレエ・アートスクールの姉妹校締結50周年の記念の舞台を率いていました。

2025年4月 関西・大阪万博に寺田バレエ・アートスクールが出演  Photo 尾鼻文雄
2025年8月 寺田バレエ・アートスクール姉妹校締結50周年記念公演

亡くなる直前まで、子どもたちを教え、ウクライナのことを心配していた美智子先生。夫妻が打ち込んだバレエの世界で、2人の意志を引き継いで、息子・宜弘さんが世界的に活躍することを喜び、心から応援していました。叶うならば、平和になったウクライナを見て欲しかった……という思いが残ります。
 生徒たちを、ウクライナを、天から見守ってくださると思いつつ……。

ウクライナ国立バレエのソリスト、宜弘さんと(週刊新潮2024.9月号)©田村邦男 

 この冬に来日する、ウクライナ国立歌劇場日本公演のうち、京都で開催される公演、ウクライナ国立バレエ『雪の女王』(12/23公演)と、ウクライナ国立歌劇場管弦楽団『第九&運命』(1/15公演)は、ウクライナとの交流に半生を捧げてきた美智子先生の追悼公演となることが、決まりました。美智子先生も2つの公演を生前と同じように、自分のことのように心配しながら、でも楽しそうに微笑んで見守ってくれることでしょう。

文:菘あつこ(すずな あつこ・舞踊ジャーナリスト)


寺田バレエ・アートスクール 高尾美智子先生 追悼公演情報、ドキュメンタリー番組情報

ウクライナ国立バレエ「雪の女王」
2025年12月23日(火)18:30開演 ロームシアター京都 メインホール
SS席21,000円 S席19,000円 A席16,000円 B席14,000円 C席11,000円 D席8,000円 U25チケット4,000円
https://www.koransha.com/ballet/ukraine_ballet/

ウクライナ国立歌劇場管弦楽団・合唱団「第九&運命」
2026年1月15日(木)19:00開演 京都コンサートホール 大ホール
S席14,000円 A席11,000円 B席8,000円
https://www.koransha.com/orch_chamber/daiku/

高尾美智子先生のドキュメンタリー番組が放送されます。
「MICHIKO ~戦争とたたかうバレリーナ」

写真 ©m.ebara

本放送:【NHK BS】1/23(金)22:45~23:44
再放送:【NHK BS】1/27(火)11:00~11:59